いつの時代も「働き方」で悩むのは30〜40代。本企画では、今憧れの人生を送る女性の先輩たちの働き方や、壁にぶつかった際の解決策を取材。第3回は、人気ネイルサロン&コスメブランド「uka」代表の渡邉季穂さん。ヒット商品を連発する手腕ぶりや原動力を伺った。
1965年神奈川県生まれ。ネイリストとしてサロンに立ちながら、雑誌や広告でのクリエイティブ活動も行う。さらに、「uka」の製品開発や店舗開発などにも携わり、多岐にわたるクリエイティブ活動を続け、多忙な日々を送る。
幼少期より自宅が理容室という環境に育ったが、「美容師になりたくなかった」
祖父の代から自宅の1階で理容室を営み、それを父が引き継ぐ。2人姉妹長女である渡邉さんも小さい頃から「美容師になりなさい」と言われて育った。
「美容専門学校に通い、通信で理容師学校にも進んで美容師と理容師の免許を両方取りました。
でも実は美容師になりたくなかった。なぜなら、理容室で働くスタッフの手がいつもひび割れたりあかぎれたりしていて、その大変さを見ていたし、刈られた短い毛が自宅にたくさん落ちているのも嫌だったんです。
そのため専門学校を卒業してからもしばらくの間、美容師になることから逃げていました」
渡邉さんが幼いころを過ごした実家の理容室「むこうはら」
10代〜20代前半、“自分探し”と称して学校やアルバイトに明け暮れる
お父様に「美容師が嫌ならメイクを学んだらどうだ」と言われ、メイクアップスクールに通い始めた渡邉さん。本当はファッションのほうが好きで、文化服装学院にも通い、洋服を作ったり、原宿の洋服屋さんでアルバイトをしたりしていた。
「バイト先は古着屋さんだったのですが、その店にオシャレな人たちが集まっていて、たくさんの刺激を受けました。
そこで仲良くなった人たちが、徐々に社会に出てスタイリストやデザイナー、雑誌の編集アシスタントとして活躍し始めたんです。
焦るのと同時に、なんとしても家の仕事は継ぎたくない。どうせ私は、高校生から付き合っていた彼(現在のご主人である渡邉弘幸氏)と結婚したいから、と思って料理教室に通ったりして、ずーっと”自分探し”を続けていました」
24、25歳頃の渡邉さんと、後に夫となる弘幸さん。
同じく24,25歳頃の写真。高校時代から約40年間、一緒に歩んできた。
24歳、家業を継ぐ決心をする
渡邉さんには3歳下の妹さんがいた。10代から海外留学をしていてビジネスを学び、才能があったという。
「家を継ぐのは妹のほうがいいと思っていました。ところが、彼女は21歳で、脳腫瘍で亡くなってしまったんです。同時期に父も喉頭癌を患い、なんとか生還しました。
こうした経験から、妹のぶんまで両親や会社を支えなきゃ、と初めて“責任”を感じました」
25歳、ネイルサロン初体験で「甘皮の処理」に衝撃を受け、ネイリストを志す
家業を継ぐと決めたものの、美容師は嫌、メイクも料理もプロというには程遠い…という中で、ある日、
スタイリストの友人がネイルサロンに誘ってくれた。まさにネイルサロン初体験。
「もともと机でも洋服でも、ザラザラとした突起物がキライなんです。
指先もかさぶたやささくれを見つけたら、すぐにむしってしまって血を出してしまうのがクセで。そんな私の指先の甘皮をキレイにしてくれた瞬間、本当に清々しい気持ちになり感動しました!
そのネイルサロンは、そこそこ値段は高いのに、お客様がひっきりなし。皆、喜んで帰って行くのを見て、『私のやりたいのはコレだ!』とひらめきました。
ヘアをやっている間、お客さまの手は空いているから、横に座ってネイルケアを同時にやってあげたら絶対喜ばれるはず、と思ったんです。その頃、美容院『excel』を経営していた父に早速提案。私は『ネイルスクールに行く!』と言い出し、父は『どれだけ資格を取れば気が済むんだ!?』とあきれ顔。でも賛成してくれました」
26歳、L.A.の「トータルビューティサロン」との出会いが「uka」の始まり
渡邉さんは、お父様の美容院の片隅で、ネイリスト生活をスタートさせる。ただ、なかなか“ヘアサロンでネイルケアもする”というスタイルが浸透しなかった。
「ある時、父と共にロサンゼルスの『ネイリストの世界大会』を観に行ったんです。その際に知人が経営するビューティサロンを訪れてびっくり。なんて華やかなんだ!と衝撃を受けました」
ロサンゼルスで知人が経営していたトータルビューティサロン
「アメリカは『トータルビューティサロン』が主流で、1つのサロンの中にエステサロンがあったり、ヘアブローしながらネイルやペディキュアを行っているのが当たり前。
さらに、お客様と施術者の関係がフレンドリーで開放的。施術者の立場が、上でも下でもなく“私のヘアドレッサー”的な存在なのにも衝撃を受けました。
『こんなサロンを作りたい』という私の考えに、一緒に目の当たりにした父も賛同してくれて。27歳で青山に”トータルビューティサロン”としてお店をオープンしました」
30代は1日15時間労働ということもザラ。サロンワークと撮影の日々
「エクセル」青山店
オープン当初は閑古鳥が鳴いていたというが、1年経ち、渡邉さんが28歳のころからお店が軌道に乗り始める。
「昔からの友人たちがファッション業界で活躍していて、雑誌の撮影に誘ってくれました。
私が提案したネイルのデザインがシンプルなので働く女性たちが毎日オフィスにして行ける “ちょこっとデザイン”のネイルのニーズとがマッチしたのか、雑誌のお仕事が急増しました。
撮影で知り合った売れっ子モデルさんたちがお店に来てくれるようになり、ジェルネイルブームにも乗っかって、お客さまがどんどん増えて行きました。
いや〜、30代は本当に忙しかったです。
例えば、朝8〜11時で雑誌の撮影。そこから夜までサロンワーク。そのあと練習会をして23時過ぎまで15時間労働の日々。土日も、お客さまがいらっしゃる限りサロンワークをしていました。
忙しいのがキライじゃないのと、妹の分まで頑張らなきゃ、という気持ちに後押しされて。いただくお仕事は断りたくない、の一心でがむしゃらに働いていました」
44歳で「uka」ブランド誕生。初のオリジナル商品「ネイルオイル」を発表
仕事をして15年以上経ち、渡邉さんは初めてオリジナル商品を発売した。それが、人気のロールオンタイプの「ネイルオイル」だ。
「uka」のアイコン的存在、ネイルオイル。
「私のポリシーとして、サロンでのケアの延長に自宅ケアがあり、そこで役立つものを作りたい、というのがあります。
ずっと、他社製のネイルオイルをお勧めして買っていただいていましたが、『面倒だ』『ボトルからオイルが漏れた』などの理由から、使っていない人が多いことに気づきました。
液漏れしなくて、もっと使いやすいものをと考え、ロールオンタイプの小さなネイルオイルにしました。
ブランド名を『エクセルボーテ』にして蝶のマークまで考えていたのですが、商標的に使えないことが発覚。さなぎが蝶へと“羽化する”という意味を込めて『uka』にしたんです」
すべてのサロン名を『uka』に変更し、渡邉さんは44歳で代表取締役に就任。
現在、トータルビューティサロンとストアを10店舗展開。ヘアケア、ボディケア、ネイルなどのレギュラー製品が約150アイテムにも上る。
自分探しの20代から、渡邉さんは一貫して自分のひらめきを信じて突き進んできた。いいと思えば行動は早いが、何かと何かが線でつながらないとやらない、のもポリシーだ。サロンに併設する『ukafe』も、”蝶が花にとまり、蜜を吸う”という発想でできたという。
六本木のミッドタウン内にある「ukafe」の内観
57歳の今、目標は「オンオフの切り替えのある生活」
前述の通り、昼夜も土日も関係なく仕事をしてきた渡邉さん。30年間、走り続けてきた今、次なる目標は“オンオフの切り替えができた生活を送ること”と話す。
「実は、50代になってから、視力や集中力の低下を実感しました。
そこで、1日の施術を調整してサロンワークの仕事を減らしたんです。施術の内容も、細かいデザインは難しいので今ではオペレーションやディレクション、サロンのプロデュースなど働き方が変わりました。
今までと同じではないことに、本当はプロとしてプライドが傷つきました。
でもネガティブ思考はやめて、現状を認めることで気持ちが楽に。“お客様が喜んでくださるかどうか”が私の基準なので、今の私にできることの中で、この基準が満たせているかが大事だと考えています。
少し働き方が変わったので、オンオフのメリハリをつけたいなと。アフターコロナには、おしゃれに手厚く友人をもてなしたいと企んでいます♪」
悩み多き30代、40代のBAILA読者たちへのメッセージ
「“言霊(ことだま)”って大事だと思うんです」と渡邉さん。
「今、“シータヒーリング”を学んでいて。例えば水は、分子が細かく、波動を感じやすいもの。“キレイね”と水に向かって話しかけ、顕微鏡で水の粒子を見るととても美しく、汚い言葉をかけると水の粒子は汚くなるといいます。どんどん澄んでくるんです。
人も一緒。
“こんなことしたい”と言っていると、それが現実になります。自分に『大丈夫!』と、良い言霊を与え続けてみてください。きっと願う方向に進んでいきますよ」
「今、『uka』の会員は100,000人を超えています。「ukaの製品は使用しているけれど、ukaサロンを利用したことがない」というお客様もいると気がつき、サロン発からストア発で、お客さまのお声をカタチにすることにしました。
“ネイルオイルの香りが好き”と言う声をよく聞くことから、ネイルオイルで人気の香り4種のフレグランスを初めて3月に発売します。これもまた点と点が線になってできた製品です」
渡邉さんは、今までの人生、すべて自分の勘や力を信じて選択してきた。嫌ならやめればいい。でもやめないならちゃんとやるしかない、と思ってきた。その根底には、お母様が「やらなきゃいけないのなら、楽しみなさい」と言った言葉が息づいているという。
「この母の言葉と、妹の存在、父の情熱を感じられる、“家族の絆”が私の原動力。
父が与えてくれた『本物はブレない』という教えが、ukaの社訓『本物の技術、本物の感性、本物の気配り』に生きています」
妹さんもお元気だった頃の家族写真
小さな頃から人に囲まれ、人が好きで、人に助けられてきたという渡邉さん。生まれ変わったら何をしたいか聞いたところ、
「今、お店の空間づくりに携わっていてとても楽しいから、インテリア関係の仕事をやりたいかな。あ、でも人の話を聞いてアドバイスをするのが好きだから、“タロットの占い師”もいいかも(笑)」と即答。
この屈託のなさも、渡邉さんの大いなる魅力のひとつだ。