いつの時代も「働き方」でいちばん悩むのは30〜40代。憧れの先輩たちも本企画では、女性の先輩たちの働き方ターニングポイントを取材。4回目は、日本を代表する美容家・小林ひろ美さんが登場。唯一無二の美容法の誕生秘話や輝き続ける秘訣を伺った。
1964年東京生まれ。高校在学中にダブルスクールで山野美容専門学校を卒業。日本大学芸術学部映画学科へと進んだ後、21歳でアメリカへ留学。フロリダやブラジルでとことん日焼けした褐色の肌から、透明美肌へと変身を遂げた“スプーン美容法”で一躍有名に。美容研究家として高名な母、小林照子氏と共に立ち上げた『美・ファイン研究所』の主宰も務め、雑誌やショッピングチャンネルなどで活躍中。
小学校が3度も変わり、“同級生とは違う自分”を感じていた
ひろ美さんが生まれた時から、母・小林照子さんはコーセーの美容研究部長としてバリバリと働くキャリアウーマンだった。商品開発や広告制作などひとりで何役もこなし、1ヶ月間出張で留守なこともしばしば。5歳頃の記憶は、いつも父とふたりで留守番している鍵っ子だった。
普通の家庭は、お母さんが朝晩ご飯を作り、おやつを作るのにうちは違う。
「『なんで、うちのママだけこんなに家に居ないんだろう。ヒドイ母だ』と思っていました。
さらに引っ越しも多く、小学校も3回変わっているんです。特に小2〜小5は友達の中で浮いていました。塾にも行かず、桜文鳥のトトちゃんを肩に乗せて歩く、相当風変わりな子でした。それが、小6で転校した銀座の小学校で開眼。銀座の商人の子供が多く通っていて、皆、いうなれば鍵っ子。初めて『あ、私普通だ』と思えたんです」
ひろ美さんはひとりっ子。中学時代はひとりでいることの自由さが、ほったらかされている孤独感を上回っていた。社会に出てさまざまな経験をしている母から聞く情報は楽しく、徐々に確執もなくなってノリも合ってきた。ただ、母の跡を継ぐ気はまったくなかった。母と同じことはできないと思っていた。
小学校低学年の遠足で。母に甘えるひろ美さん。
高校時代は美容学校に通いつつ、語学に没頭していた
高校1年のとき、母の「手に職を持った方がいい」という助言でダブルスクールで山野美容学校の通信課程に入った。
インターンまでやったが、ヘアメイクの仕事にはどうしても情熱がもてなかった。
「その反面、語学が好きでしたね。母の出張に同行して海外にもよく行っていましたし、小学校のときのチューターが日系ブラジル人だったことから、ちょっとポルトガル語も知っていました。
小6くらいから、『もしかしたら、自分の性格はアメリカのほうが生きやすいかも』と感じていたので、いつかは留学したいと思っていました」
小林ひろ美さん、16歳のとき。母の出版記念パーティで。
小林ひろ美さん21歳の頃。母の海外出張へ合流。
大学3年の21歳でL.Aへ留学。2年間で気づけばブラジルに
大学に進学するも、「20歳になるまでに決めたことにならお金を出すわよ」の母のひと言に方向転換。19歳と半年くらいのときに慌てていろいろ考えて、リクルート主宰の「あなたの夢を応援します」プロジェクトで面接を受けに行き、受かる。
「20歳は過ぎていましたが、21歳と1ケ月で晴れて留学することになりました。
まずは、アメリカのL. A.の学校へ。ところが、想像以上に日本人が多かった為、ほぼ日本語漬けの生活になり(笑)、次はオレゴンへ。さらに、フロリダ(タンパ)へ向かいました。こうした手続きや引越しも全て自分で頑張りました。
フロリダの太陽が大好きすぎて、肌は常に真っ黒。NASAが開発したというレフ板を購入してまで焼いていました。昔からチャレンジ精神旺盛(笑)。
いいと思ったことには一直線。まさに恋愛もそうで、オレゴンで知り合った男性(ブラジル人)と親しくなり、フロリダにも一緒に移動しました。
23歳のとき、彼がブラジル(南部のクリチバ)へ帰国する際に、結婚する気でブラジルへ一緒に飛びました。親も周囲もびっくり。その後、結婚し、息子を授かったんです」
20代の頃のひろ美さん。小麦色の肌がお似合い。
22歳のひろ美さん。友人たちの中でも日焼け肌はナンバーワン!
24歳、国際結婚の壁にぶち当たり離婚
「国際結婚の場合、パートナーの仕事についてはとても悩ましい問題ですよね。言葉の壁などもあり、いつもごめんね と謝っていた気がします。そこまではすべて勢いだけで突き進んできました。
当時のブラジルの治安情勢なども考え、『もうブラジルに行くのは難しいかも』と夫婦で話し合い、円満に離婚しました。
私は母と息子と住むことに。パートナーとは喧嘩別れではなく、今でも交流があります。ずっと父子関係も良好で、日本で開いた息子の結婚式にも参列してくれました」
ひろ美さんの息子さんが3歳頃の親子ショット。
ひろ美さん29歳の頃。5歳の息子さんと。
24歳でブラジルから日本への輸入業を始める
息子を育てるためにもしっかりと働かなければ! と一念発起。2人の従業員を雇い、ブラジルのジュエリーや子供服を輸入する会社を創設。女性誌にも取り上げられ順調だったという。
「その後、ドイツの文房具やアメリカ人アーティストの仕事にも関わるチャンスをいただき、昼夜関係なく仕事三昧でした。でも若いから寝なくたって平気。オフィスと家が一緒だったこともあり、仕事をしながらも息子と一緒に居られることもよかったです」
26歳で『美・ファイン研究所』を立ち上げ、美容の仕事を開始
1991年、ひろ美さんが26歳のときに、母はコーセーを退職して『美・ファイン研究所』を設立した。そのタイミングで、メイクアップサロンもスタート。ここからひろ美さんの美容人生が始まる。
「母を手伝いながらも、何か母と違うことができないかと模索していました。
あるとき、友人たちにスキンケアの順番をアドバイスしたら、『こういうことが知りたかったのよね』と言われ、『え、こういうことでいいの?』とびっくり。と同時に、“やっと私の顧客が見えた!”と思いました。これで、母と違うフィールドで生きていけるんだと。
母はプロを育てているけれど、私は一般の方々にハウツーをお伝えできるかもしれないと。一般の人たちがキレイになる情報を提供することでお役に立てるんだとわかり、ヤル気スイッチがオン。
自分が工夫して効果を感じていた“スプーン美容”など、楽しいことを開発して伝えることが生きがいとなりました。他にも、マッサージ法の開拓やスカーフの巻き方、スカンジナビア政府と組んで北欧との交流など、母と全然違うことをしていました」
32〜33歳、最大の肌落ちを経験。セルフケアで立て直し自信がつく
フロリダとブラジルで蓄えてしまった紫外線ダメージ。このツケが30歳を越えてから回ってきたと話すひろ美さん。
「顔も体もシミがすごいことに。初期老化も感じつつ、これは自分でなんとかしなきゃと思って、保湿と美白ケアを一生懸命丁寧に行いました。すると、半年くらいでシミの中央が割れてきて、肌全体にも透明感が出て。自分のお手入れが間違ってないんだと確信し、肉体的に疲れていても、スキンケアタイム=心の時間と思えて美容が楽しくなっていきました」
40代。自身のエイジングと向き合う
ひろ美さんの美容法が書かれた数々の著書。出すたびに話題となりヒットを連発。
ひろ美さんにとっての40代は、美容家としての円熟期。著書を出せば大ヒット、『MAQUIA』など美容専門誌からファッション誌の美容ページまで引っ張りだこで、多忙を極めていく。
「スロースターターだったので、自分の言動が伴っていなくては!と思い、美容に関してもっともっとアップデートするべく、日々探究しました。
新たな美容法を編み出すため、以前、パリコレなどヨーロッパに行っていた経験から、企業へのトレンドセミナーの講師をしたり、ファッショントレンドから見える美容などの研究をしたり、と人とは違う角度からアプローチしたのがよかったのかもしれません」
ひろ美さんが自身の”美容術の集大成”と話す『美肌図鑑』。
47歳の誕生日に、ひろ美さんの美のテクニックの集大成ともいえるスキンケア本『美肌図鑑』(ワニブックス)を出した。
「これは、もっとも思い出に残る仕事でした。“いつからでもキレイになるのは遅くない”とい思いを込めて、私のすベてを注いだ本です」
人生100年時代。58歳のひろ美さんが今思うこと
3歳の孫がいるとは到底思えない、エイジレスな美しさ。「30代の頃より50代の方が5倍くらい仕事をしている」と話すひろ美さん。その原動力は、偉大なる母の存在であろう。
「私の母は、とっても楽天的でバイタリティの塊。きっと生涯現役ですね。私はああはなれない。でもサービス精神は一緒で、ふたりとも誰かの役に立てると本当に幸せなんです。
私はこれからの人生、女性が自立するためにもう少しスムーズに生きられるようなお手伝いができたらいいなと思っています。子供が病気になった時など、お母さんたちを支援する(元気にさせる)サポートもしたいとも考えています」
母と同じ人生を歩みたくない、と模索していた時期もある。
でも、振り返ると母に感謝することばかり、と話すひろ美さん。
「思えば3歳の頃から母に保湿しなさいと乳液を渡され、塗ってみたら肌がふくふくになってうれしかったのを覚えていました。毎日当たり前のように保湿をしてきて、それは皆もやっていることかと思ったら違った。物心ついたときに肌がキレイと褒められるようになったのも母に感謝です」
2012年社員旅行でバリへ。母照子さんとひろ美さんの2ショット。
楽しそうな小林ひろ美さん母娘。2018年タイの社員旅行で。
最後に、バイラ世代へのメッセージ
「30代、40代の方で“もうこんな歳”と言う人がいますが、それはもったいないと思います。年齢なんて“ゼッケン番号”みたいなもの。人は経験を重ねるほどに“目にコクが出る、豊かになる“と言われています。歳を取ることは悪くはないんです。“ヴィンテージ感”が出せればいいのです」と、屈託なく笑うひろ美さん。
「私もね、戻れるなら30代に戻りたい。もっともエンジョイできる年代ですもの。
人からなめられないし、キレイだし、体力もあるし。プレッシャーは多いけれど、魅力的な世代です。 気持ちが前向きであればどんどん進めます。わがままだっていいし。
自分の軸をしっかりもって、しなやかに揺れ動きながらも楽しみながら進んでいって欲しいですね」