三浦さんの新刊『墨のゆらめき』は、昨年、オーディオブックとして書き下ろした作品。「耳で聴く読書」の新たな可能性とは?
ホテルマンと筆耕士がバディに!? 書を通じて結ばれる友情
きまじめで几帳面なホテルマン・続力と、複雑な過去を持つクセ者の書家・遠田薫。性格も住む世界も違う二人の男の心の交流を「書」を通して描いた三浦しをんさんの新刊『墨のゆらめき』。書籍の発売はこの5月だが、実はAmazonオーディブルのために書き下ろされ、昨年11月から音声によって先行配信された作品。最初から「耳で聴く」ことを想定して小説を書くことは、三浦さんにとっても初の試みだった。
「お話をいただいて、面白そうだなと思ったんです。オーディオブックということは、まだ文字が読めない子どもが耳にするかもしれないし、家族みんなで楽しんだりするかもしれない。目で読む読書とは違う楽しみ方ができるなと、新しい可能性を感じました。それで題材を考えたとき、『文字』にしたら面白いんじゃないかと。文字は、基本的には目で見て認識するもので、それをあえて音声のみで表現することで、文字のイメージがふくらむんじゃないかと思いました」
執筆の際は、朗読でもわかりやすいように、会話を多くしたり、言い回しを平易にするなどの細かい調整を施し、レコーディングにも立ち会った。
「いざ声優さんに読んでもらうと意味が通じにくいところがあって、その場で書き直したり、セリフのニュアンスを変えて読み直していただいたり。リテイクを重ねて、収録に8時間くらいかかってしまいましたが、聴きごたえのあるものになりました」
完成したものを聴いて、「自分で書いたことを忘れて、声を上げて笑ってしまった」と言うように、書道教室での小学生たちのにぎやかな様子や、続と遠田の軽妙なやり取りが、朗読によって生き生きと輝き、人物の輪郭がより鮮やかに浮かび上がってくる。
三浦さんの作品らしく、舞台となる街の空気感が肌で感じられるのも楽しい。書道教室があるのは、世田谷の下高井戸。駅から教室へと向かう道のりが細やかに描写され、続とともに、私たちも教室に通っている気分に。
「書くときに、“こんな感じの街”って考えるのが好きなんです。具体的な地名を出さない場合も、空想の街の場合でも絶対に地図を描きますね。今回、住宅街で、昔ながらの書道教室が残っていそうな街はどこだろうと考えたとき、かつての路面電車の名残があるところがのどかでいいなと思って、下高井戸駅にしました」
また、三浦さんはこれまでも人形浄瑠璃の太夫や文芸翻訳家など、様々な仕事のプロフェッショナルを書いてきたが、今回、登場するのが「筆耕士」という耳慣れない仕事。毛筆で、表彰状や感謝状、慶弔に関わる目録や宛名など書く職業で、遠田は書道教室を営む傍ら、ホテルの筆耕士を務めている。筆使いの確かさはもちろんのこと、様々な筆跡を自在に操ることができる異才の持ち主。
そんな彼が自分のために、漢詩を書き上げるシーンは圧巻だ。研ぎ澄まされた集中力とほとばしるような情熱で、白い画仙紙に黒い墨を重ねていく。そのエネルギーの高まりは、激しく、美しく、官能的でさえある。
「本の監修をしてくださった書家の方のグループ展に行ったとき、すごく刺激を受けたんですね。それまで書道といえば、学校でしかやったことがなくて、しかも苦手で、何が面白いのかよくわからなかったんですけれど(笑)、展覧会で見たら、うまいだけじゃなくて、自由で、斬新で。書で一人ひとりが宇宙をつくっているんだなと感じました」
そして、遠田のすごみに触れ、その人間性に惹かれていく続。ブロマンス要素が漂うバディものでもある本作は、まさに三浦さんの真骨頂でもある。
「遠田には、暗い過去があって、続とは別世界で生きてきた人。お互いがお互いにとって異物なんですね。だから自分のペースや気持ちを波立たせられることもあるけれど、それゆえに思いがけない発想が浮かんだり、新たな希望を見つけることができるんだと思うんです。だけど実際には、なかなかそんな人とは巡り合えないですよね。特に今の時代、同じような価値観を持つ人とばかり、つきあいがち。そして、そこからはみ出した人をバッシングしたり、人の属性だけを見て排除したりする。でも、それでは何も生まれないと思うんです。そんななかで、ひとつの希望として、続と遠田の出会いを書きたかったんです」
新しい自分へと一歩踏み出したい──そんなとき、本書がきっとその背中を押してくれるに違いない。
新刊『墨のゆらめき』
三浦しをん著 新潮社 1760円
三日月ホテルに勤める続力は、顧客の「お別れの会」の案内状の宛名書きを依頼するため、書道教室を営む筆耕士の遠田薫を訪ねる。二人は協力して手紙の代筆業を始めることになるが――。
三浦しをん
みうら しをん●東京都生まれ。2000年、小説家デビュー。’06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、’12年『舟を編む』で本屋大賞、’15年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞を受賞。BAILAでの連載をまとめた人気エッセイ集『のっけから失礼します』が、6月20日に文庫化。
撮影/イマキイレカオリ 取材・原文/佐藤裕美 ※BAILA2023年8・9月合併号掲載