当たり前の日常が一変した11年前の震災は、東北に生きる女性たちの働き方にも、大きな影響を及ぼしました。あの日、そして現在の彼女たちの仕事とは。vol.2は記者として、東海新報社代表取締役として地域の人に伴走する鈴木英里さんを取材しました。
株式会社 東海新報社
鈴木英里さん
代表取締役・42歳
1979年生まれ、岩手県大船渡市出身。宮沢賢治の小説とダリオ・アルジェントのホラー映画が好き。
「自分が誰のために働いているか目の当たりにする経験はあのときが初めてでした」
4歳の頃から会社の跡継ぎになることを決めていた
「派手な観光地があるわけではないけれど、ここは自然が美しくてしみじみといいところ。毎日暮らしているのに毎日新しい発見があるので、まるで宝探しをしているみたいです」
そう声を弾ませるのは、岩手県の気仙地方(大船渡市、陸前高田市、住田町)で地域紙を発行する「東海新報社」の鈴木さん。「子どもの頃からずっと岩手に住み続けたいと思っていた」と語るほど地元愛が強く、4歳のときにはすでに祖父が創業した会社を継ぐことを決意していたそう。2020年には先代だった父の跡を継ぎ、社長に就任した。
「高校を卒業後は、視野を広げたほうがいいという家族のアドバイスを受けて東京の大学に進学。いずれ地元に帰ることは決めていましたが、卒業後は出版社で雑誌の編集をしていました。5年後、母が倒れたことを機にUターンし、東海新報社で働き始めたんです」
当時の東海新報は男性向けの堅い記事が多く、「おなごの読むとこがねえが」と言われることも。総務部に配属された鈴木さんは「もっとこうしたい」という歯がゆい思いを抱くことになる。
「総務部にいながらもちょこちょこ取材をさせてもらっていたら、父から『そんなにやりたいなら編集部に行け』と言われて正式に記者になりました。女性の視点で取材した記事を徐々に増やしていき、ライフスタイルに関する『勝手にトークアイ』というコーナーを立ち上げたんです。おかげで女性の読者からの反響も多く、今では『こんなのがあるよ』と電話で情報をいただくことも。読者からの反応によって紙面のバリエーションが増えていくことは、地域紙のよさだと思います」
東海新報は日本で唯一のオールカラー日刊新聞。父である前社長の熱い思いによって実現したことだった。
「子どもさんや趣味の写真、絵画展の模様などはカラーで掲載するとすごく喜ばれるんです。父は念願だったフルカラーを実現するために、工場の担当と一緒に機械を自作したそう。既存のものだと2色しか刷れないので、二つ重ねて4色刷れるようにしたんです」
常に読者と地域のことを考えていた父の背中
仕事人間だった父は「家庭人としては0点だったと思う」と笑う鈴木さん。とはいえ、常に読者のため、地域のために何ができるかを追求する背中からは、たくさんの影響を受けた。
「祖父が会社を創業したのは昭和33年。その2年後の昭和35年にはチリ地震津波に見舞われ、海沿いにあった社屋も被災し1週間新聞が出せなかったそうです。祖父の悔しさを目の当たりにしていた父は、昭和60年に社屋の高台への移転を決断。そして震災の2年前には、停電になっても新聞が刷れるよう、自家発電機を設置したんです」
「あんな山の中に建てるなんて」と批判された社屋は、震災で被害を免れた。
「3月11日は、取材を終えて社に戻った矢先に地震が起こりました。父は間違いなく津波が来ると言っていましたが、正直私はそれほど深刻にとらえていなくて。担当地域の状況を確認するために記者が持ち場に散っていったあと、ご承知のとおりあの津波がありまして。社員が一名犠牲になったことがわかったのは、何週間もたってからでした」
会社に戻った数人の記者で号外を発行。自家発電機を使い、コピー機で2千部を印刷して避難所に配っていった。「道路が完全に寸断されたことで私は会社に戻れず、その日は高台にある祖父母の家に身を寄せました。従姉妹から母方の祖母が津波で亡くなったことを聞かされましたが、あまりに世界の状況が変わりすぎて、完全に茫然自失。心が追いつかないくらい麻痺していました。号外に携われなかったことは残念でしたが、地割れした三陸道をなんとか車で通らせてもらい、翌日には会社に出社。何を報道するべきかノウハウはありませんでしたが、まずは思いつく限りの避難所をまわって避難者名簿を作成することにしたんです」
「地元が困っているときに役に立てなかったら、地域紙なんて便所紙以下だ」
父が常々言っていた言葉の本当の意味を理解した鈴木さん。販売店も被災し、新聞を配達する手段がないなか、3月中は新聞を無料にし、全避難所に社員が足で配ることが決まった。
「毎日毎日避難所や自宅避難している方たちをまわって名簿を作成しました。当時はガソリンも手に入らなかったのですが、スタンドの方がこっそり分けてくれて、『あんたたちだけが頼りなんだ。しっかり取材して伝えてくれ』と言ってくれたことも。その方たちの思いに報いようという気持ちで必死でした。夜中に刷り終わった新聞を手分けして避難所に届けるのですが、扉を開ける前から皆さんが待ち構えている気配がするんです。これほど必要とされていると実感したことはありませんでした。目を皿にして読み、『ああ、あそこのおばさんが生きてる!』と喜んでくれる。自分が誰のために働いているのか、何を必要とされているのか、目の当たりにする経験は初めてでした」
自身も被災し、悲しみに直面しながらも懸命に地域のために奔走した鈴木さん。「役に立てるときに立ち止まる職業人はいないと思います」と語る。
「その場を動けない人たちのために、私たちが目となり、耳となり、足となる。その使命感は大きかったです。新聞は斜陽産業といわれていますが、電気もガソリンもない状況のなかで、アナログな新聞の強みも感じましたね。1万7千部あった部数が一時は8千部まで落ち込みましたが、1〜2年で1万4千部まで回復しました」
いつでもそばにいると思ってもらいたい
あれほどの大きな被害を受けながら、変わらず胸にあるのは「ここはなんていいところなんだろう」という思い。
「瓦礫だらけの荒れ果てた街も、季節が巡って春が来れば花が咲く。あんなに荒れ狂った海も、今では穏やかで本当に美しい姿を見せてくれます。とてもこの地や海を憎む気にはなれませんし、地元にいる人たちにも、ここで生きることを後悔してほしくありません」
そのために始めたのが、写真の勉強。オールカラーの鮮やかな紙面を生かし、心が和むような自然の風景の写真を掲載することを心がけている。
「震災が起きてからは、写真を流されてしまった読者の方から震災前の写真が欲しいと言われることも多くなりました。地域を記録し、アーカイブする役目も担っていきたいと思います」
いつか地元の魅力をまとめたガイドブックを作りたいと目標を掲げる鈴木さんだが、これからいちばん大切にしたいと語るのは、地域の人に伴走すること。
「震災から11年がたちましたが、今でも当時のつらい気持ちを吐露できずにいる人はまだいらっしゃいます。時間がたてばたつほど、『まだそんなこと言っているの?』『いいかげん立ち直りなよ』と言われることもあり、その励ましが悲しみを悲しみのままいさせてあげられなくなっていく。私たちはそういう悲嘆に対し、いつでもそのまま受け止めますという姿勢でいたいと思っています。そして10年、20年たとうと、その方が聞いてほしいと思ったタイミングに駆けつけられるようにしていたい。東海新報はそばにいると思ってもらえるように、これからも信頼関係を築いていきたいと思います」
震災10年の特集号。左は鈴木さんが早起きして撮りに行ったという水平線に昇る朝日。2011年4月に記者がたまたま撮影した子どもたち(右下)を探し出し、10年後の姿として掲載(右上)。読者から大きな反響が寄せられた
鈴木さんが立ち上げた「勝手にトークアイ」では、趣味や料理、季節の風景などを取材し、美しい写真とともに掲載。たまたま車で通りかかったお宅の美しい庭を取材させてもらったことも
仕事と震災のヒストリー
22歳 東京の出版社に就職
28歳 故郷・大船渡へ戻り、東海新報社に入社。総務部門で勤務
32歳 記者に。主に陸前高田地域を担当ライフスタイル情報を届けるコーナー「勝手にトークアイ」を立ち上げる
2011.3.11
3月12日発行の号外
3.12 | 東海新報は社内のコピー機で製作した号外を発行 |
3.13 | 自家発電装置による印刷で発行を続ける |
7.23 | 「勝手にトークアイ」を再開 |
避難所をまわって作成した当時の紙面。避難者情報は手書きで張り出されるため、読み取れない文字は「●」と表記した
40歳 先代である父が他界し、社長を引き継ぐ。1面のコラム「世迷言」を担当するほか、記者として取材に走る日々
撮影/misumi 取材・原文/松山 梢 ※BAILA2022年4・5月号掲載