当たり前の日常が一変した11年前の震災は、東北に生きる女性たちの働き方にも、大きな影響を及ぼしました。震災の前から続けている仕事、震災をきっかけに生まれた仕事、震災後の今だから意義のある仕事…。その働き方は多様ですが、誰もがその土地で働けることに喜びを感じ、明るく、ポジティブに前を見据えていました。バイラ世代の4人の働き方が、不安な今を生きる女性たちを照らす、みちしるべになりますように。
嵩上げと整地の進む陸前高田 Photo by Morita Tomomi
『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)© Komori Haruka + Seo Natsumi
津波に壊されてしまった町のうえにつくられていく、新たな町。震災ボランティアの一員として岩手県陸前高田市に入った映像作家の小森はるかさんが画家・作家の瀬尾夏美さんと制作した映画が映し出す風景。震災が変えた人々の生活や町の時間がそこにある。
1. 保険会社で人びとの『生活を支える』仕事
東京海上日動火災保険株式会社
前田奈緒さん
仙台自動車営業部 副主任・ 35歳
1986年生まれ、宮城県仙台市出身。現在は自動車保険の営業を担当。楽天イーグルスの大ファン。
「保険の存在意義や使命を実感する大きなきっかけになりました」
想定外のイレギュラーな事態に対応する日々
前田さんが保険会社への就職を決めたのは、多くの女性が生き生きと活躍している社風に魅力を感じたから。そして、「“ちょうどいい都会”で住みやすい、大好きな地元の仙台で働きたい」という強い思いがあったからだった。
「震災を経験したのは入社して2年がたった頃。営業事務の内勤をしていたときでした。仙台市内は多くが停電しましたが、会社がある中心地は電話がつながったので、朝から晩までお客さまや代理店さんからの被害報告を受け付ける無我夢中の日々でしたね」
あれほどの津波被害は前例がなく、会社としてマニュアルもなかった。
「車が流されて見つからない状況でも解約をしていいものか、契約者さまご本人が津波の被害に遭われて連絡がつかない場合は、ご家族と手続きをしていいのか、本来書面で行う解約の手続きを電話で完結していいものか……。イレギュラーな状況ばかりだったので、一つひとつメンバーとマニュアルを作成しながら対応していきました」
当然、前田さんも被災をした一人。
「地下鉄が動いていたので通勤はできましたが、郊外にある実家は電気もガスも止まり、しばらくはろうそくで生活しました。うちは水が出たので、石油ストーブでお湯を沸かして髪を洗ったりも。暮らしに関しては、皆さん誰もが苦労されたと思います」
全国から社員が応援に駆けつけ、保険金の支払業務が夏頃までにほぼ完了。前田さんの担当は外勤の営業に。
「お客さまの生活に直結するものなので、とにかく迅速な対応を心がけました。私たちは保険を提案する側でしたが、その保険が必要とされる場面を目の当たりにしたことで、重要性を肌で感じましたね。ただし地震保険に加入しておらず、電話口で泣いてしまわれるお客さまがいたことも事実。『もっとしっかり保険を提案できていればお役に立てたかも』という後悔は、皆が感じたことでした。震災の経験は、保険の存在意義や使命を実感する、営業としての大きな気づきになりました」
保険は挑戦する人を応援する伴走者だと気づいた
保険の仕事に使命を燃やしていた前田さんのキャリアが転換したのが、地方創生の担当となったこと。東北復興をPRするイベントの企画を任された。
「イベントのノウハウはゼロ。まったく新しい業務に戸惑いはありました。とはいえ保険は人が色々なことに挑戦したり成長していくときのリスクをカバーするもの。地域が元気になれば挑戦しようと思う人も増えますし、ひいてはその伴走者としての保険の役割も重要になっていくと考えたんです」
東京駅周辺で3度のイベントを成功させたことは、大きな自信に。
「自分の中では、3年くらい別の会社に出向した感覚でしたね(笑)。社内にいながらも保険以外の仕事にチャレンジできたことは、すごくいい経験になりました。2020年度には希望を出し、人員不足の支店を支援するために石川県の七尾市に1年間転勤。震災経験をほかの地域の方に知ってもらえる貴重な機会になりました」
挑戦する人を応援する保険会社の前田さん自身も、果敢に挑戦を続ける人。学生時代はバイトやサークル活動をしながら子ども支援のボランティア活動に積極的に携わり、去年は東京オリンピックのボランティアも経験した。
「昔からいろんなことにトライをするタイプかもしれませんね。社内では去年、地方にいながら本店の商品開発やシステム開発などを副業できる制度ができたので、いつか挑戦したいと思っているところ。自分のキャリアアップを目指しながら、10年後も保険を通して仙台の発展に携わっていきたいです」
仕事と震災のヒストリー
22歳 地元・仙台のエリアコースの社員として入社。営業事務(内勤)を担当
2011.3.11
全国から社員が応援に駆けつけた。山形からおにぎりが送られてくるなど、支援が嬉しかったという
24歳 営業(外勤)を担当
30歳 東北業務支援部に配属。東北6県をとりまとめるイベントを担当
31歳 丸の内ビルディングでのイベント
32歳 丸の内KITTEでのイベント
東京での復興イベントに向け、前田さんは東北の企業を積極的に巻き込むことに力を入れた
34歳 他地域支援で石川県の七尾支社にて勤務
七尾支社時代の仕事仲間と
35歳 再び仙台の営業部門に
2. 地域紙「東海新報社」で震災を『記録し、伝える』仕事
株式会社 東海新報社
鈴木英里さん
代表取締役・42歳
1979年生まれ、岩手県大船渡市出身。宮沢賢治の小説とダリオ・アルジェントのホラー映画が好き。
「自分が誰のために働いているか目の当たりにする経験はあのときが初めてでした」
4歳の頃から会社の跡継ぎになることを決めていた
「派手な観光地があるわけではないけれど、ここは自然が美しくてしみじみといいところ。毎日暮らしているのに毎日新しい発見があるので、まるで宝探しをしているみたいです」
そう声を弾ませるのは、岩手県の気仙地方(大船渡市、陸前高田市、住田町)で地域紙を発行する「東海新報社」の鈴木さん。「子どもの頃からずっと岩手に住み続けたいと思っていた」と語るほど地元愛が強く、4歳のときにはすでに祖父が創業した会社を継ぐことを決意していたそう。2020年には先代だった父の跡を継ぎ、社長に就任した。
「高校を卒業後は、視野を広げたほうがいいという家族のアドバイスを受けて東京の大学に進学。いずれ地元に帰ることは決めていましたが、卒業後は出版社で雑誌の編集をしていました。5年後、母が倒れたことを機にUターンし、東海新報社で働き始めたんです」
当時の東海新報は男性向けの堅い記事が多く、「おなごの読むとこがねえが」と言われることも。総務部に配属された鈴木さんは「もっとこうしたい」という歯がゆい思いを抱くことになる。
「総務部にいながらもちょこちょこ取材をさせてもらっていたら、父から『そんなにやりたいなら編集部に行け』と言われて正式に記者になりました。女性の視点で取材した記事を徐々に増やしていき、ライフスタイルに関する『勝手にトークアイ』というコーナーを立ち上げたんです。おかげで女性の読者からの反響も多く、今では『こんなのがあるよ』と電話で情報をいただくことも。読者からの反応によって紙面のバリエーションが増えていくことは、地域紙のよさだと思います」
東海新報は日本で唯一のオールカラー日刊新聞。父である前社長の熱い思いによって実現したことだった。
「子どもさんや趣味の写真、絵画展の模様などはカラーで掲載するとすごく喜ばれるんです。父は念願だったフルカラーを実現するために、工場の担当と一緒に機械を自作したそう。既存のものだと2色しか刷れないので、二つ重ねて4色刷れるようにしたんです」
常に読者と地域のことを考えていた父の背中
仕事人間だった父は「家庭人としては0点だったと思う」と笑う鈴木さん。とはいえ、常に読者のため、地域のために何ができるかを追求する背中からは、たくさんの影響を受けた。
「祖父が会社を創業したのは昭和33年。その2年後の昭和35年にはチリ地震津波に見舞われ、海沿いにあった社屋も被災し1週間新聞が出せなかったそうです。祖父の悔しさを目の当たりにしていた父は、昭和60年に社屋の高台への移転を決断。そして震災の2年前には、停電になっても新聞が刷れるよう、自家発電機を設置したんです」
「あんな山の中に建てるなんて」と批判された社屋は、震災で被害を免れた。
「3月11日は、取材を終えて社に戻った矢先に地震が起こりました。父は間違いなく津波が来ると言っていましたが、正直私はそれほど深刻にとらえていなくて。担当地域の状況を確認するために記者が持ち場に散っていったあと、ご承知のとおりあの津波がありまして。社員が一名犠牲になったことがわかったのは、何週間もたってからでした」
会社に戻った数人の記者で号外を発行。自家発電機を使い、コピー機で2千部を印刷して避難所に配っていった。「道路が完全に寸断されたことで私は会社に戻れず、その日は高台にある祖父母の家に身を寄せました。従姉妹から母方の祖母が津波で亡くなったことを聞かされましたが、あまりに世界の状況が変わりすぎて、完全に茫然自失。心が追いつかないくらい麻痺していました。号外に携われなかったことは残念でしたが、地割れした三陸道をなんとか車で通らせてもらい、翌日には会社に出社。何を報道するべきかノウハウはありませんでしたが、まずは思いつく限りの避難所をまわって避難者名簿を作成することにしたんです」
「地元が困っているときに役に立てなかったら、地域紙なんて便所紙以下だ」
父が常々言っていた言葉の本当の意味を理解した鈴木さん。販売店も被災し、新聞を配達する手段がないなか、3月中は新聞を無料にし、全避難所に社員が足で配ることが決まった。
「毎日毎日避難所や自宅避難している方たちをまわって名簿を作成しました。当時はガソリンも手に入らなかったのですが、スタンドの方がこっそり分けてくれて、『あんたたちだけが頼りなんだ。しっかり取材して伝えてくれ』と言ってくれたことも。その方たちの思いに報いようという気持ちで必死でした。夜中に刷り終わった新聞を手分けして避難所に届けるのですが、扉を開ける前から皆さんが待ち構えている気配がするんです。これほど必要とされていると実感したことはありませんでした。目を皿にして読み、『ああ、あそこのおばさんが生きてる!』と喜んでくれる。自分が誰のために働いているのか、何を必要とされているのか、目の当たりにする経験は初めてでした」
自身も被災し、悲しみに直面しながらも懸命に地域のために奔走した鈴木さん。「役に立てるときに立ち止まる職業人はいないと思います」と語る。
「その場を動けない人たちのために、私たちが目となり、耳となり、足となる。その使命感は大きかったです。新聞は斜陽産業といわれていますが、電気もガソリンもない状況のなかで、アナログな新聞の強みも感じましたね。1万7千部あった部数が一時は8千部まで落ち込みましたが、1〜2年で1万4千部まで回復しました」
いつでもそばにいると思ってもらいたい
あれほどの大きな被害を受けながら、変わらず胸にあるのは「ここはなんていいところなんだろう」という思い。
「瓦礫だらけの荒れ果てた街も、季節が巡って春が来れば花が咲く。あんなに荒れ狂った海も、今では穏やかで本当に美しい姿を見せてくれます。とてもこの地や海を憎む気にはなれませんし、地元にいる人たちにも、ここで生きることを後悔してほしくありません」
そのために始めたのが、写真の勉強。オールカラーの鮮やかな紙面を生かし、心が和むような自然の風景の写真を掲載することを心がけている。
「震災が起きてからは、写真を流されてしまった読者の方から震災前の写真が欲しいと言われることも多くなりました。地域を記録し、アーカイブする役目も担っていきたいと思います」
いつか地元の魅力をまとめたガイドブックを作りたいと目標を掲げる鈴木さんだが、これからいちばん大切にしたいと語るのは、地域の人に伴走すること。
「震災から11年がたちましたが、今でも当時のつらい気持ちを吐露できずにいる人はまだいらっしゃいます。時間がたてばたつほど、『まだそんなこと言っているの?』『いいかげん立ち直りなよ』と言われることもあり、その励ましが悲しみを悲しみのままいさせてあげられなくなっていく。私たちはそういう悲嘆に対し、いつでもそのまま受け止めますという姿勢でいたいと思っています。そして10年、20年たとうと、その方が聞いてほしいと思ったタイミングに駆けつけられるようにしていたい。東海新報はそばにいると思ってもらえるように、これからも信頼関係を築いていきたいと思います」
震災10年の特集号。左は鈴木さんが早起きして撮りに行ったという水平線に昇る朝日。2011年4月に記者がたまたま撮影した子どもたち(右下)を探し出し、10年後の姿として掲載(右上)。読者から大きな反響が寄せられた
鈴木さんが立ち上げた「勝手にトークアイ」では、趣味や料理、季節の風景などを取材し、美しい写真とともに掲載。たまたま車で通りかかったお宅の美しい庭を取材させてもらったことも
仕事と震災のヒストリー
22歳 東京の出版社に就職
28歳 故郷・大船渡へ戻り、東海新報社に入社。総務部門で勤務
32歳 記者に。主に陸前高田地域を担当ライフスタイル情報を届けるコーナー「勝手にトークアイ」を立ち上げる
2011.3.11
3月12日発行の号外
3.12 | 東海新報は社内のコピー機で製作した号外を発行 |
3.13 | 自家発電装置による印刷で発行を続ける |
7.23 | 「勝手にトークアイ」を再開 |
避難所をまわって作成した当時の紙面。避難者情報は手書きで張り出されるため、読み取れない文字は「●」と表記した
40歳 先代である父が他界し、社長を引き継ぐ。1面のコラム「世迷言」を担当するほか、記者として取材に走る日々
3. スパリゾートハワイアンズで『笑顔をつなぐ』仕事
常磐興産株式会社/スパリゾートハワイアンズ
猪狩梨江さん
エンターテイメント部 リーダー・ 38歳
1983年生まれ、福島県双葉町出身。2011年の「フラガール全国きずなキャラバン」にはサブリーダーとして参加した。
「非常時にもエンターテイメントは必要。そのことを身をもって実感しました」
ステージで踊れることが楽しくて仕方がなかった
福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズ。ダンシングチームで活躍していた猪狩さんは、引退後フラガール出身初の女性管理職として後輩のサポート業務を担当。現在はエンターテイメント部に所属し、子どもたちへのオンラインレッスンを企画している。
「ただただ踊ることが好きでダンサーになったので、今は教える難しさに直面しているところ。生徒さんは県外の小学生が多いのですが、ほとんどがダンサーになりたいという夢を持っていて。フラの裾野を広げる活動ができていることにやりがいを感じています」
猪狩さん自身も、小学生の頃に家族で見たフラガールのステージに衝撃を受け、将来の目標にした。高校卒業後に一度試験に失敗するものの、ダンスの専門学校を経て2度目の挑戦。フラガールデビューを果たした。
「やっと念願がかなったので、とにかく楽しくて仕方がなかったですね。メンバーみんなで一つのショーを作り上げていく幸せも感じていました」
映画『フラガール』のヒットもあり、立ち見まで出るほどぎっしり埋まった客席からは熱気を感じたほど。そんな充実の中、直面したのが震災だった。
「地震や津波だけではなく、こちらは原発事故もあったので、自分の中では『あ、すべて終わっちゃった』と感じました。施設も被害を受け、社員はみんな1カ月間自宅待機に。もう踊ることはできないと思ったし、この先どうしようという不安でいっぱいでした」
希望の光が見えたのは、それからすぐ。地元いわき市や福島県の元気な姿を見せるため、「フラガール全国きずなキャラバン」をスタートさせたのだ。
「実家は双葉町にあったので、家族と離れることに不安はありましたが、踊る場所があるということは当時の私の大きな支えになりました。当たり前の生活を送ることが困難になったことで、ステージに立てていた日々も当たり前じゃなかったんだと実感。一回一回の公演前に『ありがとう』と心の中で唱えることが、私の日課になりました」
失ったものは大きいけれど与えられたことも大きかった
炭鉱の閉鎖を機に56年前にオープンしたスパリゾートハワイアンズ。長い歴史の中では、オイルショックやバブル崩壊による客足減少など、困難に直面しながら乗り越えてきた過去が。
「こちらの人は底力がある。それは自分にも言えることです。ピンチのときこそ燃えるし、つらいときこそ笑って乗り越えようという気質がある気がします」
コロナ禍の今、スパリゾートハワイアンズはまたも困難に直面している。
「1度目の緊急事態宣言の際は一時休館をしていたので、震災のときを思い起こす瞬間はありました。ダンサーたちは休館時も毎日出勤して練習をしていましたが、モチベーションを保つのは難しかったと思います。そのときに私がしたのは、お客さまがいないがらんとした客席のすみで、彼女たちの練習を見守ること。震災直後に大きな不安を抱えた経験があるからこそ、『このピンチは今しか経験できないこと。逆に楽しもう』と励ましました。非常時においてもエンターテイメントは絶対に必要。そのことを身をもって知ったので、震災を機に私の前向きなマインドはパワーアップしたと思います(笑)」
ダンサー引退後は、実家の農業を手伝いながらのんびり暮らすライフプランを立てていたという猪狩さん。
「震災がなかったらこれほど長くスパリゾートハワイアンズに関わることはなかったでしょうね。今は子どもたちに教えながら、やっぱり自分も踊りたいと思う気持ちが芽生えてきたところ。失ったものは大きいけれど、与えてもらったことも大きかった気がします」
仕事と震災のヒストリー
20歳 2度目の挑戦で、ダンシングチーム40期生として入社
22歳 映画『フラガール』公開
25歳 サブリーダーに就任
2011.3.11
震災によりスパリゾートハワイアンズの施設やステージも大きな被害が
27歳 リーダーに就任
「フラガール全国きずなキャラバン」は全国26都府県と韓国・ソウルを含む125カ所で247もの公演を行った
32歳 ダンシングチームを引退。エンターテイメント部所属の管理職に
37歳 フラのオンラインレッスンを担当
画面越しのレッスン
4. シェアハウス運営で『場所の価値をつくる』仕事
株式会社 巻組
渡邊享子さん
代表取締役・ 34歳
1987年生まれ、埼玉県出身。これからの5年間で200軒のシェアハウスを建てることを目標にしている。
「街を盛り上げようとする前向きな石巻の空気に心を打たれました」
楽しくて通っているうちに移住を決めていた
空き家を買い取ってリノベーションを施し、シェアハウスとして運営する事業を行っている渡邊さん。拠点にしている宮城県石巻市の住宅事情は、この10年で大きく変わったという。
「震災時に2万2千戸の住宅が津波の被害に遭ったのですが、その後、復興予算で約7千戸が供給されました。住宅供給が進んだのはいいけれど、10年がたった現在、人口は約2万人減少。空き家が多く放置されています。建築基準法上建て替えられない物件もあるので、1日利用から長期居住まで多様なライフスタイルにコミットする住宅に再利用し、移住に興味を持ってもらえるコミュニティづくりをしています」
銀行員の両親のもと、埼玉県の3LDKマンションで育った彼女が石巻と出会ったのは、東京の大学院で都市計画を研究していた頃。ボランティアとして訪れたことがきっかけだった。
「私の場合は単純に石巻が楽しくて通っているうちに移住した感じ。就職活動中も行きたい企業に出会えなかったし、東京にあまり執着もなくて。震災後は東京にも閉塞感や自粛ムードが漂っていましたが、石巻には街を盛り上げようという前向きで自由な空気が漂っていて、非常に心を打たれました」
渡邊さん曰く石巻には「ラテン系」の気質があるらしく、「街のためになるなら頑張って」と、自宅をボランティアに開放してくれる方も多かった。
「サラリーマン家庭で育ち、水道がどうして出るのか、電気はどうしてつくのかなんて考えたこともありませんでした。石巻でのボランティア生活は、本当に生活に必要なものは何かに思いを馳せた時間でもありました。『今日は誰の家に泊めてもらおう』『お風呂はどうしよう』と考えることは、半キャンプみたいで楽しかったし、自分の生活をひとつずつ成り立たせていくことに充実感がありましたね」
仲のよさで解決できることは意外に多いと思っている
27歳で起業をするものの、初めから順調だったわけではない。
「立ち上げた当時は給料なんて出なかったけれど、それでも生活できたのはボランティア時代に生活レベルを極限まで下げたから。贅沢しなければ生活できるという楽観的な気持ちがありました。あとは人的資本。起業前に結婚して夫の実家に居候していたので、住む場所に困ることはありませんでしたし、洋服や食べ物は地域の仲間から買うことができました。仲のよさで解決できることって多いんですよね。そうして価値を回し合って気持ちよくつながり合っていれば、後々自分が助けられることもある。顔の見える距離で生活を成り立たせることは楽しいし、価値観が合う人の中で生きることは、なんだかすごく気持ちがいいです」
インタビュー中に何度も口にした「気持ちいい」というキーワードは、彼女の生き方や仕事を貫いている。
「私は1987年生まれのゆとり第一世代。『ゆとりはダメだ』なんて言われるけれど、最高じゃんって思うんです。会社はフレックス制にしていますが、やることさえしていればサボってもいい。日本人は働きすぎて生産性が下がっていると思うんです。無駄をそぎ落としてスリムアップする価値観は、日本をよくすると信じています」
嫌なことはしない、楽しいほうを選ぶという信念を貫き通した渡邊さんは今、最高に気持ちよく働けているとか。
「経営者としては遅咲きだし、事業ですごく得をしているわけじゃないですからね(笑)。それならせめて、後悔しないように生きたい。時間場所にとらわれずに気持ちよく時間を使える働き方ができているのは、この土地に移住してこられたおかげだと思っています」
仕事と震災のヒストリー
2011.3.11
23歳 東京の大学院に在学。ボランティアとして石巻に入る
肉体労働が主だったボランティア。東京で出会えない魅力的なクリエイターと知り合うきっかけにもなった
24歳 修士論文を執筆中、生活拠点を石巻に移す
25歳 研究員として大学院に籍を置き、石巻で活動
27歳 それまでの活動を会社化することに。巻組を設立
シェアハウスだけでなく、店舗のリノベーションやお惣菜屋さんの事業開発など幅広く活動
31歳 第7回 DBJ女性新ビジネスプランコンペティション女性起業家大賞を受賞
撮影/misumi(前田さん、鈴木さん、渡邊さん)、小渕真希子(猪狩さん) 取材・原文/松山 梢 ※BAILA2022年4・5月号掲載