「普通」に殺されかけた私と、『火車』の話

宮部みゆきの火車は、私のバイブルでもある。
読了感は忘れられない。ミステリーとして面白かった、という感想だけではどうしても収まらない。もっと嫌な、もっと現実に近いものが残る。
この作品は、借金や自己破産といったテーマを扱っている。でも本質はそこじゃない。
「普通に生きられなかった人が、どこまで逸脱していくのか」が軸だと思う。
登場人物の彼女は、最初から壊れていたわけじゃない。
むしろ、ちゃんと“普通であろうとした人”だ。
ちゃんと働く。
ちゃんと生活する。
ちゃんとした自分でいる。
でも、その“ちゃんと”に少しずつズレが生じたとき、人はどこに落ちていくのか。
『火車』は、それを淡々と、容赦なく描いていく。
ここで、少し自分の話をしたい。
私は若い頃、醜形恐怖症に近い状態だった。
鏡を見るたびに、「ここがダメだ」と粗探しをしていた。
目が小さい気がする。
輪郭がおかしい気がする。
肌が汚い気がする。
誰もそこまで見ていないのに、自分だけが異様に厳しい基準で自分を測っていた。
そして、その基準は“世間的な普通”だったと思う。
「こういう顔がいい」
「こういう見た目が正解」
それに合わせようとして、どんどん苦しくなっていった。
『火車』の彼女と、私の状況はもちろん違う。
でも構造は驚くほど似ている。
どちらも、
「普通になろうとしすぎた結果、壊れていく」 という流れにいる。
普通に生活しなければいけない。
普通の見た目でいなければいけない。
普通から外れてはいけない。
正しいことのはずなのに、それが過剰になると人を追い詰める。
そして厄介なのは、
その“普通”がどこまでも曖昧で、終わりがないことだ。
『火車』の怖さは、破滅がドラマチックじゃないところにある。
いきなり崩れるわけじゃない。
少しの無理、少しの見栄、少しの嘘。
その積み重ねで、気づいたときには戻れなくなっている。
これは借金の話に限らない。
見た目でも、仕事でも、人間関係でも、同じことが起きる。
私も、「ここを直せばマシになる」と思っていた。
でも実際は、直せば直すほど新しい欠点が見えて、終わりがなくなっていった。
あれは改善じゃなくて、ただの消耗だったと思う。
『火車』を読んでいて一番きつかったのは、
彼女を完全に否定できないことだ。
「そこまでやるのはおかしい」と言い切れない。
なぜなら、その延長線上に自分がいる感覚があるから。
方向が違うだけで、やっていることの根っこは同じだ。
この作品は、犯人探しの話として読むと正直もったいない。
むしろ、
自分はどこで同じ構造にハマるのか
そこを考えたときに、一気に怖くなる。
最後に残る問いはシンプルだと思う。
「普通って、そんなに守る価値あるのか?」
火車とは仏教に出てくる存在で、罪人を地獄へ運ぶ“燃える車のことらしい。
あの頃の自分に言うなら、たぶんこうだ。
普通になろうとする前に、
その“普通”が誰の基準なのか、一回疑ったほうがいい。
でないと、気づかないうちに自分を削り続けることになる。
『火車』は、そういう静かな警告の物語だと思う。














































