BAILA創刊以来、本誌で映画コラムを執筆している今祥枝(いま・さちえ)さん。ハリウッドの大作からミニシアター系まで、劇場公開・配信を問わず、“気づき”につながる作品を月1回ご紹介します。第22回は、スペイン全土を震撼させた、実際の事件を題材にした『理想郷』です。
夢のスローライフが悪夢へと変わる。衝撃的な実話にもとづくスリラー
スローライフを夢見て、スペインの山岳地帯ガリシア地方の村に移住したフランス人夫婦、アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)とオルガ(マリナ・フォイス)。しかし、理想の暮らしは悪夢へと変わる……。本作のもとになっているのは、2010年に発覚した実際の事件。裁判が終わるまでの8年もの間、多くのメディアが報道し、スペイン全土に激震が走った。映画は、この事件をフィクションとして描いている。
読者の皆さま、こんにちは。
最新のエンターテインメント作品をご紹介しつつ、そこから読み取れる女性に関する問題意識や社会問題に焦点を当て、ゆるりと語っていくこの連載。第22回は、夢のスローライフが悪夢に変わる『理想郷』です。
田舎と都会、地元民と移住者の対立は、昔からエンターテインメントでも題材として描かれてきました。最近では、日本でも『ガンニバル』や『ハヤブサ消防団』といった地方の田舎を舞台にしたドラマが注目を集めました。
現実問題として、近年は地方への移住者と地元の人々の摩擦が、テレビでも特集されるほどの深刻な社会問題として議論を呼んでいます。このような問題が増加している理由の一つには、コロナ禍で生活や人生を見つめ直し、地方で暮らす選択をする人が増え、その流れは今では定着していることが考えられるでしょう。また、過疎化が進む地方では移住を誘致したり、町おこしの一環として外部の人材を起用したりするケースが増えています。
だからこそ、2010年に実際にスペインの山岳地帯の小さな村で起きた事件に題材を得た『理想郷』には、震撼させられるとともに、改めてこの問題について考えさせられるものがあります。
スローライフに憧れて都会を離れ、スペインのガリシア地方にあるサントアージャという小さな村に家を購入したフランス人夫婦のアントワーヌとオルガ。豊かで素朴な自然の中で、有機栽培で育てた野菜を市場で販売しながら慎ましやかに暮らし、村の活性化にも貢献しようと、村に点在する廃墟を修繕します。
しかし、地元で生まれ育った村人たちは慢性的な貧困問題を抱えており、閉鎖的な村ならではのヒエラルキーも。老いた親と暮らす隣人兄弟シャンとロレンソは、夫婦への反感を隠そうともせず、嫌がらせを始めたため、アントワーヌは証拠を残そうとビデオカメラで隠し撮りをします。
一触即発の緊張感が最高潮に達したのは、村にとっては金銭的利益となる風力発電所のプロジェクトをめぐり、賛成する兄弟と環境を守りたい夫婦の意見が真っ向からぶつかったこと。そんな中、森で犬の散歩をしていたアントワーヌを兄弟が待ち伏せします。その後、アントワーヌは行方不明になったのでした。
隣人兄弟のシャン(ルイス・サエラ)、ロレンソ(ディエゴ・アニード)と激しく対立するアントワーヌ。関係が悪化する中、犬の散歩で森に行った際に兄弟に待ち伏せされ、消息を絶った。果たして、彼の身に何が起きたのか……? 撮影が行われたのは、最も近い都市部まで35分近くかかる町キニエラ・デ・バラハス。過去25年間に、この村に住んだ人間はセルビオという男性ただ一人だという。
都会からの移住者と地元民、どちらにも言い分はある
最初からフランス人夫婦を敵対視していた隣人のシャン。嫌がらせが度を越したものになっていき、シャンの暴力性や凶暴性があらわになる過程には、息詰まるほどの緊迫感と不穏な空気が漂う。しかし、村人も一枚岩というわけではなく、シャンの強硬かつ悪意のある態度や意見に否定的な人々も。
隣人兄弟のシャンとロレンソは、こういう人いるよなあと誰もが思ってしまうような、排他的で閉鎖的な負のイメージを煮詰めたようなキャラクターです。しかし、映画を観ていると、彼らがフランス人の夫婦に反感を抱くのもまた、わかるなあという気持ちにも。
仕事もなく夢もなく、田舎から出ていくこともできない兄弟たち。一方、都会から来たアントワーヌとオルガ夫婦は、空気が美味しい、自然が美しい、目先の利益より環境を守るべきだと風力発電所のプロジェクトに反対する。両者の格差を目の当たりにしながら、どちらにも言い分はあると思いますよね。
はたから見ているだけだからわかることなのだと思いますが、私はアントワーヌも、もう少し柔軟さを見せて、地元の文化に歩みより、彼らの生活を理解する努力をしてもいいのではないか、このままでは事態が悪化するだけだとハラハラし通しでした。もちろん、兄弟が逆恨みのような憎しみをアントワーヌにぶつけ、とりわけ暴力に訴えていくことを肯定することはできないのですが。
ここで多くの女性が気になるのは、夫とともに夢の生活をかなえようと奮闘する妻オルガの立ち場です。私は途中からずっと、オルガの視点で事態を見守っていましたが、アントワーヌが森で行方不明なった後も、この地で淡々と有機野菜を栽培し、市場で売りながら、夫の行方を探し続けるオルガの姿に、ふと「自分だったらどうするだろうか」と考え込んでしまうものがありました。
男性と女性、問題を解決するためのアプローチの違い
アントワーヌとオルガは、完全に孤立していたわけではない。豊かな自然の中で、穏やかに楽しく過ごした時間もあった。それは、まさに“理想の暮らし”で、憧れてしまう。
映画の前半では、どちらかというと夫・アントワーヌに寄り添うような形で、男性たちの諍いをそばで見ながら、心配しているようすだった妻・オルガ。しかし、夫が姿を消した後、田舎の一軒家を切り盛りするオルガの明るさが消えた表情からは、深い悲しみと苦悩とともに、夫と夢見たスローライフを実践すること、そして夫の行方を知るまでは、悪夢と化したこの地から去ることはないのだという強い意志が伝わってきました。
普通に考えれば、夫の失踪に関わっているはずの暴力的な兄弟が隣に住み、仲よくなった村人もいるけれど、不穏な空気が漂う中で、女性一人で暮らし続けるという選択は危険極まりないことでしょう。心配して母親のもとを訪れた娘マリーの心情は、察してあまりあるという感じ。
しかし、オルガの意志が揺らぐことはありません。彼女のこの強さ、覚悟は、どこから来ているのでしょうか?
本作は、都会と田舎、移住者と地元民の対立をテーマとした作品ですが、対立の先頭に立っているのは男性です。シャンとロレンソ兄弟の老いた母親、そしてアントワーヌの妻オルガ。この二人を通して見る移住者の女性と地元民の女性の暮らし、人生とは、どんなものだったのか。そこには、女性に共通した普遍的かつ根深い問題が読み取れるようにも思えます。だからこそ、事件の全容がわかった時のオルガの対応もまた、非常に心を揺さぶるものがあるのでした。
そこには一般的な認識として、男性の問題の解決方法と女性の問題の解決方法の違いがあるでしょう。監督の意図として、長い歴史の中で培われてきた両者の対比を見ることができます。
そもそも夫婦は、自分たちがスローライフを楽しむとともに村の活性化に貢献したいと考えていました。過疎化が進む田舎で生きるということは、未来のために隣人たちと助け合い、支え合って現状を改善していかなければならない。それは言うほど簡単ではないということを、多くの人が頭では理解しているでしょう。夫婦の思いと地元住民の不幸なすれ違いを避ける方法はなかったのでしょうか。
そして、これは都会と田舎の問題だけにとどまらず、今の社会に蔓延する排他的で殺伐とした空気にもつながっているようにも思うのでした。
母オルガの身を案じて、やってくる娘マリー(マリー・コロン)。父親の捜索を決して諦めない、母親の強い意志を知るとともに村の雰囲気に異様なものを感じる。監督と共同脚本を手がけたのは『おもかげ』や本作で高く評価されているスペイン出身のロドリゴ・ソロゴイェン。人間の深層心理をスリリングに映し出す映像世界は、独創的かつ秀逸。
『理想郷』11月3日(金・祝)より、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネマート新宿ほか全国順次公開
監督:ロドリゴ・ソロゴイェン
脚本:イザベル・ペーニャ、ロドリゴ・ソロゴイェン
出演:ドゥニ・メノーシェ、マリナ・フォイス、ルイス・サエラ、ディエゴ・アニード、マリー・コロンほか
© Arcadia Motion Pictures, S.L., Caballo Films, S.L., Cronos Entertainment, A.I.E,Le pacte S.A.S.