BAILA創刊以来、本誌で映画コラムを執筆してくれている今祥枝(いま・さちえ)さん。ハリウッドの大作からミニシアター系まで、劇場公開・配信を問わず、“気づき”につながる作品を月2回ご紹介します。第17回は、『かもめ食堂』『めがね』の荻上直子監督がオリジナル脚本で描く『波紋』です。
ある日突然失踪し、10年以上たって帰宅した夫に妻が抱く殺意
ある日突然、妻・依子と息子・拓哉を捨てて失踪した夫・修。ひょっこり戻ってきたと思いきや、妻の出す料理をうまいうまいとたいらげ、長年、依子が一人で面倒を見ていた父親の遺産の話をする。その無神経さに、妻が殺意を抱くのも納得!? 筒井真理子と光石研の迫真の演技から、1秒たりとも目が離せない。
読者の皆さま、こんにちは。
最新のエンターテインメント作品をご紹介しつつ、そこから読み取れる女性に関する問題意識や社会問題に焦点を当て、ゆるりと語っていくこの連載。第17回は、突然失踪した夫が10年以上たって帰宅したことで、妻の人生が混沌を極めていく『波紋』です。
専業主婦の須藤依子(筒井真理子)は、家事をきっちりとこなしながら家を回し、ひとり息子・拓哉(磯村優斗)を育てあげ、更年期障害にも苦しみながら寝たきりの義父の面倒をみて、花が咲く庭のあるマイホームではたから見れば平穏な生活を送っていました。しかし、東日本大震災を機に、突如として夫・修(光石研)が失踪。残された依子は庭を枯山水に変え、新興宗教に傾倒し、現在はスーパーでパートタイムの仕事をしながら一人で静かに暮らしています。
10年以上がたったある日、夫がふらりと姿を現します。半年前に依子が看取った義父の仏壇に線香をあげたいと言われ、複雑な思いで夫を家にあげる依子。自分が勝手に捨てたことなどなかったかのように、妻が作るご飯を「うまいうまい」と言って食べ、やおら「自分は癌である」と打ち明けます。同情は誘うものの、「やっぱり最後は依子のもとで…」といった言葉には、依子でなくともしらけた気持ちになります。
まじめに一生懸命、家族のために生きてきた依子に、どこまでひどい仕打ちをすれば気がすむのか。そんな夫は道に放り出してやれと私は思ってしまいますが、何事にも責任感がある依子は、宗教上の理由からも夫を無下にはできません。
とはいえ、依子だけが被害者だとも思えないのですよね。そもそも依子には多々、共感できない点があります。荻上監督も「共感しづらい人物で嫌いなところがあるが、理解できない人間を知りたいという気持ちから生まれた人物」と語っています。そこに、本作の面白さがあります。
夫も息子も去った家で、「緑命水」を崇める新興宗教を心の拠りどころとしながら、静かに暮らしてきた依子だったが……。
「家族のため」という依存的な態度が、実は家族の重荷になっていた⁉️
父親が出て行った後、母親が新興宗教にハマり、心が壊れていくような姿を間近で見ていた息子・拓哉。突然、恋人を連れて帰宅するが、あからさまに母親のことを「信用していない」らしい態度に、ますます依子は追い詰められていく。
幸せであったはずの人生が、ここまで破綻し、精神的に追い詰められてしまった理由はどこにあるのでしょうか?
依子は人生のすべてを家庭に集中させていたため、いつしか夫や息子に依存していたのです。そのことが現在の夫や息子の言動からも、彼女の言動からもよく伝わってくるのですが、そうした自分の「重さ」を認めること、それを事実として受けとめることは、依子にとってはとてつもない苦痛でしょう。だって、それまでの全人生を否定されるようなものだから。
私が依子を見ていて、ここが一番悲しいなと思ってしまうのは、「女性の幸せとはこうあるべき」という概念に縛られたまま、そこから抜け出せずにいる点でしょう。
そんな依子に対して、もっと早く、やりがいのある仕事を持つべきだったとか、家庭と別のところにも居場所を見つけるべきだとか、もっともらしいことを言って批判することは簡単です。でも、理由はどうであれ、自分のことは後回しにして家族のためにやるべきことをやり続けたのは事実で、それは簡単なことではありませんよね。挙句、「もっと自分の好きなことをして、自分の人生を楽しんでくれたらよかったのに」というのも、残酷な気がしてしまいます。
自分は依子とは違う、うまく仕事と家庭、家族と自分自身の人生のバランスが取れている、そんなふうに思っていたとしても、家族や身近な人から見たらどうなのかはわからないし、年齢によっても変化が生じるでしょう。人生も後半に差し掛かるという段階で、「今までやってきたことはすべて無駄だったのではないか」「自分の人生は何だったのか」という孤独と虚しさに苛まれる依子の葛藤には、多くの人にとって何かしら、はっとさせられるものがあるのではないでしょうか。
「夫に仕返ししたっていいんだよ」という同性からの言葉
アルバイト先のスーパーで共に働く水木は、依子にとって数少ない“話せる”相手。しかし、そんな水木にも、ある事情が……。水木役の木野花の味わい深い演技に魅了される。
さらに言えば、依子は息子世代とのジェネレーションギャップにも直面します。息子の拓哉が連れてきた恋人に対して、反感を抱いてしまうという展開は珍しくないでしょうが、ここで依子の本音、古い価値観、意地悪な側面が露見します。そして、そんな母親の胸の内を、拓哉はすべて見通しているのでした。
このエピソードもまた他人事として批判するのは簡単ですが、ブーメランのように自分自身に戻ってくるような、観客に対する荻上監督の鋭い問いが込められているようにも感じられます。
まさに八方塞がりの依子にとって、真に自分の苦しみを解放してくれるものとはなんでしょうか?
重要な鍵の一つとなるのが、アルバイト仲間の水木(木野花)です。突然帰ってきた夫に怒りを抱えながらも、「人を呪わば穴二つ」ということわざを持ち出して新興宗教の教えを説き、良き信徒、善人であろうとする依子に対して、水木は言います。
「いいんだよ、夫に仕返ししたって」
とんでもない!と驚く依子ですが、明らかにそこから彼女の態度には変化があります。それはほめられたものではないかもしれませんが、ここで初めて彼女の再生への道筋に、ほんの少し光が差し込んだようにも思えます。
依子を演じる筒井真理子の、幕切れのパフォーマンスは圧巻です。
それは本作の中で、初めて依子からパッションが感じられるシーンでもあります。
「女の一生、そんなに簡単に終わってたまるかよ!」
そんな心の声が聞こえた気がして、終始好きにはなれなかった依子に対して、なぜだか胸がすくような思いでエールを送っている自分がいたのでした。
枯山水にも描かれているように、劇中ではしばしば“波紋”のイメージが映像に取り入れられている。VFXを使って描かれる、それぞれの登場人物から湧き出る波紋がぶつかり合うイメージの映像は、まさにこの映画のテーマを伝えているようでもある。
『波紋』5月26日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
監督・脚本:荻上直子
出演:筒井真理子、光石研、磯村勇人、安藤玉恵、江口のりこ、平岩紙、ムロツヨシほか
©2022 映画「波紋」フィルムパートナーズ