アイルランド出身のキリアン・マーフィーは、ダニー・ボイル監督の『28日後...』の主演に抜擢されて注目を集めた。以後、ハリウッド映画や人気ドラマ『ピーキー・ブラインダーズ』などに出演。『ダークナイト』3部作をはじめとするクリストファー・ノーラン監督作品の常連で、ノーラン作品では今回初の主役をつとめ、アカデミー賞に初めてノミネートされる快挙となった。
第81回ゴールデングローブ賞で最多5部門を受賞、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞ほか計13部門で最多ノミネートを誇る『オッペンハイマー』。3月11日(日本時間)の授賞式では、作品賞をはじめとして何部門受賞するかに注目が集まっている。
監督は『インセプション』『ダンケルク』『TENET テネット』などの意欲的な作風で人気のイギリス出身のクリストファー・ノーラン。最新作『オッペンハイマー』は、”原爆の父”と呼ばれたユダヤ系アメリカ人の理論物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーを描いた作品とあって、とりわけ日本人にとってはセンシティブな問題を含む。本国アメリカでは昨年7月に公開され、180分の長尺ながら世界各地域を含めて異例の大ヒットを記録した。
一方、日本では当初公開予定が未定となっていたが、配給会社が議論を重ねた結果、ビターズ・エンドが配給することで2024年3月29日の公開が決まったという経緯がある。映画の内容からその舞台裏も含めて、多くの語られるべき視点を持つ『オッペンハイマー』とは、どんな映画なのか? 作品を鑑賞する上でおさえておきたい点を解説する。
オッペンハイマーの人物像と内面に迫る伝記映画
1936年、アメリカの精神科医で共産党員のジーン・タトロックと出会い、激しい恋に落ちるおるオッペンハイマー。聡明で奔放なジーンとは長くは続かなかったが……。謎めいた魅力を持つジーンを演じるのは、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』『ブラック・ウィドウ』のフローレンス・ピュー。
『オッペンハイマー』は第二次大戦中に米軍が進めた原子爆弾製造計画「マンハッタン計画」に焦点を当てた作品ではなく、ピューリッツァー賞受賞作『オッペンハイマー』に基づきクリストファー・ノーランの視点で再構築された、オッペンハイマーの人物像に迫る伝記映画である。映画はオッペンハイマーがケンブリッジ大学で物理学を学んだ1920年代から、戦後、”赤狩り”で共産主義者としてスパイの嫌疑がかかり、原子力委員会の聴聞会に問われる1950年代までを描いていく。
その人生の物語は一本線ではなく、異なる時代を行き来しながらオッペンハイマーという人物の内面にぐっとフォーカスしていく。科学者としての原点、情緒不安定かつ繊細でエキセントリックな側面、また女性関係などのエピソードと交互に、戦後に聴聞会で追及を受けるオッペンハイマーが映し出される。映画はカラーのパートとモノクロのパートによって構成されており、基本的に「オッペンハイマーの視点」で描かれるというのが前提だ。
日本人からすると原爆の開発と投下に比重を置くのは当然だろう。映画では前述の青年期があって、ユダヤ系アメリカ人のオッペンハイマーはナチスドイツが原爆を開発する脅威が高まる中で、1942年に「マンハッタン計画」の最高責任者である陸軍のレズリー・クローヴスから極秘プロジェクトへの参加を打診される。
参加を快諾し、全米から優秀な科学者を招聘し、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所を建設して家族ごと移住させたオッペンハイマー。1945年7月に行った「トリニティ実験」でついに成功を収めるまでの過程は、俳優の熱演と映像の迫力が相まって臨場感が凄まじく、映画的な興奮を覚える一方、この実験の成功がもたらした悲劇を思うとどうにも冷静ではいられなくなるほどの衝撃と恐れの感情をも抱かせる。
結果として甚大な被害をもたらした原爆投下をめぐるくだりは、広島と長崎の惨状が描かれないことも含めて、とりわけ被爆国の人間からすると比較的あっさりとした描写に感じられるかもしれない(実際に筆者は初見時はそう感じた)。しかし、この後の物語がオッペンハイマーという人物を理解する上で、重要な役割を担っている。
1942年、ナチスドイツによる原子爆弾の開発が間近に迫ると見られている中、「マンハッタン計画」に参加し、原爆の開発に尽力するオッペンハイマー。その動機は、ユダヤ系アメリカ人であること、科学者としての探究心や野心、政府からのプレッシャーなど様々な要素が絡み合っている。
「原爆の投下によって戦争を終結させた」立役者として称賛され、英雄扱いされるオッペンハイマー。時代は米ソの冷戦時代へと移っていく中で、さらなる威力を持つ水爆の開発を推進するアメリカ政府に対して、原子力委員会(AEC)のアドバイザーとなったオッペンハイマーは核開発競争の加速を懸念し、反対の姿勢を表明する。
時代背景として、1940年代後半から1950年代前半にかけて米ソの冷戦が激化し、アメリカ国内では過剰ともいえる共産主義者の摘発が続いた。そうした「マッカーシズム」の嵐が吹き荒れる中、オッペンハイマーは共産主義者のスパイ活動への関与が疑われ、永遠と続く聴聞会で執拗に追い詰められていく。水爆の開発に反対したことが問題視されたことは明らかで、「危険人物」とみなされたオッペンハイマーは常にFBIの監視下に置かれ、抑圧され続けた。
180分の上映時間のうち、後半は法廷劇をメインとする戦後の部分がみっちりと描かれている。そうすることで、原爆の破壊力に苦悩し、個人では背負いきれない原爆の開発と投下に対する責任を、オッペンハイマーがどう感じていたのか、その複雑な胸の内を様々な角度から読み解くことができるだろう。
オッペンハイマーは原爆の開発と投下に対して謝罪の言葉を公に口にしたことはなかったというが、映画ではその胸のうちにはどのような感情が渦巻いていたのかを伝える作りとなっている。それは一言でこうだと説明できるものでもないはずだ。あるいは常人が理解できるものでもないのかもしれない。その非凡さにこそノーランが魅せられたものがあるのだろうとも思う。いずれにせよ、オッペンハイマーという非常に複雑な人物の内面に迫る物語が、現代を生きる私たちに問いかけるものについて考えることそのものに、意味があるとも言えるのではないだろうか。
戦後、戦争を終結させた立役者として称賛されたオッペンハイマーは、1950年代、赤狩りの嵐の中で共産主義のスパイ容疑をかけられ追い詰められていく。複雑な夫婦関係で問題を抱える妻キャサリン(愛称キティ)だが、夫を信じて支えになった。演じるエミリー・ブラントは『クワイエット・プレイス』シリーズなどで知られるイギリス出身の演技派で、本作で初のアカデミー賞候補入りとなった。
映画に対する疑問と物議をかもした社会現象
本作の全米公開時には、いくつかの批判や物議をかもす現象もあった。
作品に関して大きかったものの一つは、広島と長崎の現地の惨状に関する直接的な描写がなかったことへの批判だ。その批判に対して、本作はオッペンハイマーが見た世界を描いていることから、「彼自身が目撃していない」として描かなかったことへの説明がなされている。
実際に映画を観た後で改めて振り返って考える時、そのことをもってのみ本作が原爆投下と日本人の命を軽視していると考える人は多くはないのではないだろうか。しかし、唯一の被爆国である日本にとって、あくまでも戦勝国であるアメリカ側の描いた「マンハッタン計画」にいたたまれない思いがする、あるいは何かしらの反発や複雑な感情を覚えるのも当然のことだろうとも思う。
もう一つは、アメリカでは2023年7月21日の同日公開となった『バービー』と『オッペンハイマー』をセットにしたインターネット・ミームが起きたことに端を発した社会現象“バーベンハイマー”だ。
映画ファンたちがSNS上で「#Barbenheimer」(バーベンハイマー)とのハッシュタグを作り、2作の映画ビジュアルをコラージュするファンアートが続々と拡散された。原爆のキノコ雲を模したヘアスタイルのバービーや、キノコ雲を背景にポーズを取るバービー、炎を背景にオッペンハイマーの肩に乗り拳を振り上げるバービーなど、その内容はとりわけ日本人にとっては許容し難いものだった。
その後の顛末の詳細は省くが、この現象で浮き彫りになったのは、アメリカに根強くある「原爆投下は戦争の終結を早めた英断だった」という認識がベースにあるということだ。昔に比べれば異なる認識を持つ人々も、特に若い世代には多く見られるが、教育として原爆投下の正当化を刷り込まれ、原爆の凄惨さをそもそも知る機会もなかった世代の考えがいまだ色濃く受け継がれているというのが現実なのだろう。
一方で、”バーベンハイマー”に対して、アメリカのこうした論理に対する批判の声が国内からも多く上がっていたことも事実だろう。そうした社会の意識の変化を、『オッペンハイマー』がどのように反映しているのかといった視点からも、鑑賞した上で考えてみたい。
アカデミー賞に3人の俳優がミネート! 豪華演技派スターの共演
アメリカ原子力委員会の委員長で、頑固で野心に満ちたルイス・ストローズ。オッペンハイマーの天才的な頭脳を高く評価しながら、戦後は水爆実験をめぐりオッペンハイマーと対立を深めていく。演じるロバート・ダウニー・Jr.は、『アイアンマン』シリーズでおなじみ。アカデミー賞では『チャーリー』『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』に続き、3度目のノミネートにして大本命!
全編にわたり熱演を見せる、実力派の俳優たちによる熱演も本作の大きな見どころだ。アカデミー賞では主演男優賞にキリアン・マーフィー、助演男優賞にロバート・ダウニー・Jr.、助演女優賞にエミリー・ブラントがノミネートされている。
ノーラン映画に『ダークナイト』3部作のほか5作も出演しているものの、一度も主役を演じたことのないマーフィーが賞レースを席巻する高評価を得ている。ノーランは「オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーが映画の中心だった」と語っているが、アイルランド出身のマーフィーは、オッペンハイマーの「極めて複雑な人間性」を突き詰め、多くの資料に当たり、内面を掘り下げて演じたという。
スクリーンで観るマーフィーの演技は、その言葉のとおり、一筋縄ではいかない人物を見事に体現。その表情を見ているだけで、気持ちが彼の世界に引きずり込まれていくようで恐ろしくもあるほど、緊迫感と葛藤を伝えて息をのむ。
その妻キャサリンを演じるのは、イギリス出身で『クワイエット・プレイス』シリーズのエミリー・ブラント。キャサリンは生物学者、植物学者で、オッペンハイマーと結婚する前に3度結婚をしていた。オッペンハイマーとの間に二人の子どもが生まれたが、研究者としてのキャリアをわきに置いて子育てや家事に従事する生活に不満があり、孤独に苛まれ、アルコール中毒と闘うなど情緒不安定な側面もあった。
キャサリンもまた複雑な性格で、映画を観ていると現代的な考えを持ち、扱いが難しいが聡明な彼女の物語を、1本の映画として観てみたいという気にもなる。壮絶な夫婦のぶつかり合いもある一方で、オッペンハイマーの最大の理解者であり、信じて支える姿を、ブラントがマーフィーの熱演に勝るとも劣らない臨場感を伝えて強い印象を残す。
アメリカの生物学者で植物学者のキャサリンは、ロバートと知り合った頃は既婚者だった。非常に聡明で現代的な価値観を持っていた彼女は、ロスアラモスでの子育てや家事に従事する生活に不満を抱き、孤独に苛まれてアルコール中毒に……。エミリー・ブラントの迫真の演技に圧倒される。
オスカーでは鉄板だろうと言われているのが、1947年に設立されたアメリカ原子力委員会の委員長ルイス・ストローズを演じるロバート・ダウニー・Jr.だ。
保守的で強固な反共主義者であったストローズは、劇中ではオッペンハイマーと対立する、いわば本作ではヒールの役どころ。圧倒的な天才であるオッペンハイマーに対して、高卒であったなど正式な教育を受けていないことへのコンプレックスも強かったストローズの複雑な感情を、ダウニー・Jr.は巧みに演じている。
『アイアンマン』シリーズやアメコミ大作で人気があるが、そもそもが演技派俳優として知られており、1992年公開の『チャーリー』で喜劇王チャップリンを演じてアカデミー賞主演男優賞候補になった。しかし、1990年代後半から2000年代初頭まで薬物依存の克服に苦しんだことで、キャリアは低迷した。そうした過去の苦しい時期を克服しての今の活躍があるからこそ、ダウニー・Jr.の悲願とも言えるオスカー受賞にはより一層のメディアの注目も集まっている。
徹底してリアリズムにこだわることで知られるノーランは、脚本を書く段階から「合成キャラクターは書かない」と決めていたという。一般論として、本作のように多くの人間が関わった実話を描く際には、複数の人物の要素、役割を一人の架空のキャラクターが担うことが多い。そのため、本作には出演時間は多くはないが重要な人物を演じる有名俳優たちが次々と登場するのも見どころだ。
オッペンハイマーと熱烈なロマンスを繰り広げる堪能的で自由な精神にあふれたジーン・タトロック役のフローレンス・ピュー、マンハッタン計画を指揮するよう命じられた陸軍将校レズリー・グローヴス役のマット・デイモン、物理学者アーネスト・ローレンス役のジョシュ・ハートネット、ノーベル物理学賞受賞者ニールス・ボーア役のケネス・ブラナー、「水爆の父」と呼ばれるエドワード・テラー役のベニー・サフディ。ほかにもラミ・マレックやケイシー・アフレックなど、多くのスターがさらりと出てくることへの驚きや楽しみは多い。
ノーランがこだわるIMAX&没入感のある映像世界
イギリス系アメリカ人のクリストファー・ノーラン監督は、『ダークナイト』3部作から『インセプション』『インターステラー』『TENET テネット』など、作品を発表するたびに大きな話題を呼んできた。第81回ゴールデングローブ賞では『オッペンハイマー』で6度目のノミネートにして初の監督賞を受賞。アカデミー賞では『ダンケルク』に続く2度目の候補入りで受賞の可能性は高いと見られている。
『オッペンハイマー』は主要5部門以外に、作曲、撮影、脚色、美術、衣装デザイン、メイクアップ&ヘアスタイリング、編集、音響の各部門にノミネートされている。ノーラン作品は技術面においても語るべきことは多く、本作もまたすべてを語ろうとうすると分厚い一冊の本になるほどだ。いくつかポイントとなる点を簡単に紹介しよう。
本作の映画体験の最大の特徴として、圧倒的な没入感が挙げられる。先にも述べたが、本作は基本的にオッペンハイマーの視点であり、珍しいことだが脚本は一人称で書かれている。実際に観客はオッペンハイマーが体験していること、トリニティ実験の現場や聴聞会など、どのシーンでもまるでその場にいるような感覚に陥るのだが、そこにはテクノロジーによる効果も大きい。
ノーランと言えば、誰よりも強いこだわりを持つスケールの大きなIMAXの映像だ。『インターステラー』以降、ノーランの全作品で組んでいる撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマは、本作で世界最大のIMAX65ミリと65ミリ・ラージフォーマット・フィルムカメラを組み合わせた、最高解像度の撮影を手がけた。
さらに主にオッペンハイマーと対立するルイス・ストローズが登場するシーンでは、史上初となるIMAXモノクロ・アナログ撮影を実現している。IMAXはアクション映画やSF・ファンタジーなどで威力を発揮すると考えられているが、基本的に人間ドラマである本作のような作品でも、ノーランにとっての映画の最適解であるフォーマットに対する自信に揺らぎはない。
ちなみに、ノーランはウィッグ嫌いでも有名で、本作でも俳優は地毛で役作りをしている。IMAXの巨大なスクリーンにも耐えうるメイクアップ&ヘアスタイリングの完成度の高さにも恐れ入る。そういう意味では、この手のジャンルにおけるIMAXの映像体験は、演じる俳優にとっては過酷だなとも思わされる。
映像の没入感に際して相乗効果を発揮しているのが、『TENET テネット』でもタッグを組んだルドウィグ・ゴランソンのスコアと音響デザインのリチャード・キングのチームとの密接なコラボレーションによる音楽だろう。ゴランソンはオッペンハイマーの個性をヴァイオリンで表現し、弦の有機的な質にこだわることで人間味を表現したという。それは時にオッペンハイマーの張り詰めたテンションのようでもあり、苛立ちや焦燥感、精神の不安定さを伝えているようにも感じられる。
一方、「トリニティ実験」などで爆発を目の当たりにするシーンでは、「音楽はオーケストラ的なものから、非常に不吉で、まるで時計の音や心臓の鼓動、原子炉の音のようなサウンドデザイン的なものへと変化する」とゴランソンは解説。粒子がスクリーンいっぱいに映し出される中で、まさにその瞬間は無音になるなど、映像とサウンドの使い方も素晴らしい。スコアと音響そのものがオッペンハイマーという人物を表しているという点でも核実験を映像で表現するという意味でも、改めてノーランの挑戦がどれほどのものだったかについて感嘆せずにはいられない。
オッペンハイマーの頭脳と心情を全身で体感することができる本作は、徹底して劇場体験にこだわり続けてきたノーランの集大成であり、映画監督として一つの到達点と言えるだろう。
『オッペンハイマー』3月29日(金)全国ロードショー
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナーほか
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー』上・中・下巻(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
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