BAILA創刊以来、本誌で映画コラムを執筆している今祥枝(いま・さちえ)さん。ハリウッドの大作からミニシアター系まで、劇場公開・配信を問わず、“気づき”につながる作品を月1回ご紹介します。第26回は、失踪した娘を捜し続ける夫婦を描いた『ミッシング』です。
愛する娘・美羽が失踪してから3ヵ月がたち、何ら手がかりを得ることができず焦燥感に駆られながら、道ゆく人に情報提供を呼びかけるビラを配る沙織里(石原さとみ)と豊(青木崇高)。何事もなければ仲のよい夫婦だったはずが、悲劇に直面して溝が深まっていく。
なりふり構わず失踪した娘を捜し続ける親の悲しみ
読者の皆さま、こんにちは。
最新のエンターテインメント作品を紹介しつつ、そこから読み取れる女性に関する問題意識や社会問題に焦点を当て、ゆるりと語っていくこの連載。第26回は、石原さとみが失踪した幼い娘を必死で探し続ける母親を熱演する『ミッシング』です。
幼い娘・美羽が失踪してから3ヵ月。必死の願いも虚しく、世間の関心が薄れていくことに母・沙織里(石原さとみ)は焦燥感を募らせていました。夫・豊(青木崇高)とも夫婦ゲンカが絶えず、唯一事件の取材を続けてくれている地元テレビ局の記者・砂田(中村倫也)だけが頼りです。
しかし、地元テレビで沙織里と豊が娘の無事を願い、情報提供を呼びかける番組が放送された後、ネット上で誹謗中傷の標的になってしまいます。世の中の好奇の目にさらされ、悲しみのやり場もなく、藁にもすがる思いの沙織里はメディアが求める“悲劇の母”を演じるなど、心身ともに衰弱し追い込まれていきます。
つらく重い内容ですが、何よりもまず、我が子の面倒を人に任せた自分を責め続けながら娘に会いたい一心で、道ゆく人に情報提供を募る母親役の石原さんの熱演に圧倒されます。しかし、それはいわゆる映画やドラマで見るような、わかりやすく同情を誘う被害者の姿ではありません。その慟哭は、時に剥き出しの荒々しい感情を伝えて、思わず目を背けたくなるほど。観客の反発を招くような攻撃性が前面に出てしまうシーンもあります。
たとえば、美羽が失踪する前に最後に一緒にいた人物として沙織里の弟・圭吾(森優作)が登場するのですが、彼もまた暗いものを抱えているように見えます。そんな弟に対する沙織里の態度はかなり暴力的な部分もあり、もちろん圭吾がちゃんと送り届けてくれていれば……と責める気持ちは当然だし、圭吾の態度にも不信感を抱かせるものがあるのですが、この沙織里の弟への態度には戸惑いも覚えます。
もっとも、そうした複雑さこそが人間の本質でもあるのでしょうか。もとより周囲の人がどう思うかを気にしたり、自分を取り繕う余裕など微塵もなく、社会への怒りを身近な人にぶちまけたくなるのも仕方がないのかもしれません。
多くの場合、このような悲劇に際して感情の矛先が向かうのは一番近くにいる配偶者、パートナーでしょう。しかし、本来なら悲しみを共有できるはずなのに、往々にしてこうした問題に直面したとき、両者の温度差が問題になることは珍しくありません。実体験として、このようなズレについて多かれ少なかれ思い当たる経験がある人も多いのではないでしょうか。
世間の関心が薄れる中、地元テレビ局の記者・砂田(中村倫也)だけは沙織里と豊に心を寄せ、役に立ちたいと願いながらも、会社では視聴率が取れる番組作りを求められて激しく葛藤する。
美羽が失踪する直前まで一緒にいた沙織里の弟・圭吾(森優作)に対して、怒りをぶつける沙織里。心情は理解できるものの、その攻撃的な態度に困惑させられる。石原さとみの鬼気迫る熱演は圧巻だ。
悲劇に直面した際の感情の表れ方には個人差がある
精神が崩壊していく妻・沙織里に、常に寄り添おうとする豊。ふとした瞬間に感情的になる姿が、むしろ深い悲しみを感じさせる場面も。
失踪時、推しのアイドルのライブに足を運んでいたことで育児放棄と非難され、パソコンのモニターを食い入るように見つめながら、顔の見えない匿名の敵=世間に向かって罵声を浴びせかける沙織里。その姿に、「もう放っておけばいいじゃないか、ネットを見るな」と言う豊に、沙織里は猛然と反発します。
劇中、こうしたすれ違いはほかにもたくさん描かれるのですが、そのどれもが、どちらの気持ちも言い分もわかるなあと思ってしまいます。悲しみや怒りの感情をどう表現するかは、男女の違いもあるかもしれませんが、その人が持つ性格によりますよね。
本作のケースで言えば、沙織里は豊の悲しみの深さが自分と同じレベルではないと感じて苛立ちをぶつけます。しかし、この映画を観ながら豊が悲しんでいないと思う人はいないでしょう。豊は目の前でどんどん崩壊していく妻に対して心を痛め、自分が支えなければ、しっかりしなければと努めて冷静さを保とうとしているようにも見受けられます。
豊役の青木崇高さんが体現する控えめ(に見える)な悲しみもまた、深く胸を打ちます。こうした悲劇に直面した夫婦の温度差は現実でも見聞きしますし、エンターテインメントのテーマとして多く描かれていますが、距離を置く、離婚するという道を選ぶカップルも少なくないという現実もあるようです。結局のところはあきらめずに話し合うことが大事なのでしょうが、それは言うほど簡単なことではないのだと、二人の修羅場を見ながら痛感させられました。
青木さんは役の解釈について、「お腹を痛めて美羽を産んだ沙織里のつらさと自分のそれを同じ土俵には乗せられない。夫としてはそういう距離の取り方をするんじゃないかなと思いました」と語っています。そうした気づかいが、逆に夫婦の溝を深めてしまうことが現実にもあるのだろうと、悲しいことですが想像できます。
殺伐とした社会全体のリアルな空気を伝える
有力な情報提供がない中で、再び砂田に協力を懇願する沙織里。親としては当然のこととはいえ、あまりにも必死になる二人の痛々しさに、つい目をそらしたくなる瞬間も……。
石原さんと青木さんが真摯に取り組む、悲劇に直面した夫婦のあり方は見ごたえがあると同時に考えさせられることも多いのですが、『ミッシング』は事件そのものという以上に、この事件を取り巻く社会の描き方にこそ真の恐ろしさがあるとも言えます。
もう飽き飽きするほど描かれてきたとはいえ、本作が描くマスコミ批判は痛烈です。沙織里に協力的な地元テレビ局の記者・砂田は、人々の役に立つよう、誠実な仕事をしようとしますが、会社という組織はいとも簡単にその思いを打ち砕きます。
砂田自身の苦悩に共感も同情も覚えるのですが、そんな砂田やメディアの求めているものが視聴者に受けのいい母親像だと考えた沙織里が、いわゆる“悲劇の母親”を演じるくだりには薄ら寒さを感じました。沙織里がそういう言動をとること自体に対してではなく、メディアというものが個人に与える影響の大きさを思い知らされるからです。
さらに言えば、ぎすぎすとした空気が蔓延する社会全般に対するリアルな恐怖を、この映画の端々から感じ取ることができます。
先に述べたネット上の沙織里への誹謗中傷や匿名の悪質な嫌がらせ、一般の人々の悪気はないかもしれないけれど心無い言葉。あるいは沙織里の背後の道路上で何やら言い争っている大人同士の姿。その殺伐としたようすに、日常的に自分が駅のホームや人の流れの多い場所で小突かれたり、正面から歩いて来る男性がわざと肩にぶつかってきたりした経験を思い出して複雑な気持ちになりました。
社会全体が苛立ちを感じていて、そのはけ口を自分より力が弱そうな人にぶつけている。日常生活において、そんなふうに感じることがある人は多いのではないでしょうか。
𠮷田恵輔監督は、リアルでもネット上でも気が休まらないような、現代の社会の空気を巧みに伝えています。弱っている人、自分より弱い立ち場の人、“見下せる”と思った相手に対して牙を剥き、容赦なく痛めつけることで憂さ晴らしでもしているかのような負に感情。それをSNSで目撃したり日々の暮らしの中で体感したりするだけでも私たちが受けるダメージは、実は相当なものではないかとよく考えることがあります。ましてや子どもが失踪するという悲劇を受け止めるだけでも精いっぱいなのに、傷口に塩を塗るのように沙織里は母親失格だなどと糾弾するような、社会全体の懲罰的な圧力がまさにそうでしょう。
そんな社会にあって、それでも一筋の希望が見いだせるとしたら、それはどこにあって、どうやって生まれるのでしょうか? 映画には、明確な答えとしては描かれていませんが、そのヒントは様々なエピソードから得ることができると思います。印象的なラストシーンの沙織里の心情を思いながら、たとえ悲しんでいる人を助けられなくとも、少なくともそれ以上追い詰めることのないような社会であるべきだと強く思わずにはいられません。
監督は『空白』や『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、『犬猿』などオリジナル脚本の作品を多く手がける𠮷田恵輔。絶望と人はどう共存し、どのようにして光を見いだすことができるのか? 「折り合いのつけられないこと」に対する向き合い方を掘り下げていく人間ドラマに気づかされることは多い。
『ミッシング』5月17日(金)全国公開
監督・脚本:𠮷田恵輔
出演:石原さとみ、中村倫也、青木崇高、森優作、小野花梨、細川岳、ほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
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